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■ NY滞在を延ばした理由

光洋 親にはロサンゼルスからニューヨークに移ったときに、「半年で帰る」と手紙を送ったんです。で、ニューヨーク滞在を延ばそうと思ったのは、パントマイムと出会って「あ、これ面白そうだな」と思ったのも確かなんですけれども、でもそれ以上に、初級クラスの先生が可愛かったからなんです(笑)。

―― 女の先生だったんですか。

光洋 そうなんです。ローラっていうんですけれども。プエルト・リコ系の人で、だから顔立ちも日本人とあんまり変わらないような感じなんです。小柄な鳳蘭みたいな(笑)。

―― いいですね。

光洋 可愛かったんですよ。それで、すごく優しかったんです。いま考えてみたら、彼女自身も移民の子で、言葉のこととかがあったから、優しかったんだなと思うんですけれども。
  それで、勘違いしまして(笑)。
  課題で、自分の感じたことを書いて来るようにと言われて、ほかのヤツは誰もやらないんだけど、暇だったから感じたことを書いていったんです。それを読んで、「これをあなたがほんとうに書いたのか。なんて哲学的なんだ」なんて言われて、もう、いい気になって。これは何とかなるかも知れないと思って(笑)。

―― それまではガールフレンドができたりはしなかったんですか。

光洋 だめでしたね。「いいなぁ」と思っても言葉が足りなかったりとか。日本人でも、ロサンゼルスあたりでは、若いネーちゃんは外人の方に行っちゃってて。

―― ローラさんはおいくつだったんですか?

光洋 二つ上です。ぼくが二四だったから、向こうが二六でしたね。
  それで親に、「あと半年滞在を延ばす」と手紙を送ったんです。それからふた月ぐらい経って、街中で、男と二人でいるところにバッタリ出くわして、「ボーイフレンド」と紹介されたんです。
  ドッシェー!
  「もう最低」と思って(笑)。
  それからです、真面目になったのは(笑)。
  「チキショー、見返してやる」と思って。悲しかったですよ、あのときは。

―― かなりその気になってたんですか。

光洋 モリモリですよ(笑)。だって優しいんだもん、こっちが何かやっていくと、全て応えてくれるというか、親身になってくれて。

―― 相手の男性はどんな人だったんですか。

光洋 覚えてないですよ、そんなヤツのことは(笑)。
  でもね、結局ニューヨークには二年半ぐらいいることになるんですが、最後に発表会をやって、打ち上げみたいなのをやったんですが、モニ=ヤキム先生がいい人で、ぼくが「日本に帰る」と言ったら、「三〇分時間をやるから何かやって、その後でお別れパーティをやろう」と言ってくれたんです。で、作品をやって、パーティをやってくれて、その帰りにローラと一緒になったんです。一緒になったというか、ぼくが無理やり一緒に帰るようにしたんですけど。
  一週間後には帰ることになっていたから、言うだけ言って帰ろうと思ったんです。
  「ぼくが最初に滞在を延ばしたのは、あなたがいたからなんです」
  「え、どうして言ってくれなかったの?」
  「だってあのとき・・・。言っても何ともならなかったでしょ」
  「いや、何とかなったかも・・・」
  あ〜〜〜。
  なんてこったい。

―― そういうもんですよね。

光洋 悲しいッスねぇ。

■ポーリッシュ・マイム・スクール

光洋 途中から、モニ=ヤキムのところと同時進行で、ポーランドの先生がやっている「ポーリッシュ・マイム・スクール」というところにも行きはじめたんです。
  ニューヨークに行って四ヶ月ぐらい経ったころに、その人の公演を見て、それでその人が教えている学校に行くようになったんです。二年半ニューヨークにいたうちの後の二年間は、二つ平行して通っていたんです。

――モニ=ヤキムとポーリッシュ、同じようなことを近くでやっていると、仲が悪かったりしがちですが、そういうのは大丈夫だったんですか。

光洋 それは・・・あったかも知れない。

―― 「あっちへ行くな」と言われたりはしなかった?

光洋 それは全然言われなかったですね。ビジネスですから。そういうところは、向こうの人ははっきりしてますからね。ただ、例えば(相手の)方法論とかってことになると「うーん」とかってことはありますけどね。
  ポーリッシュの方は、踊りっぽかったんですよ。バレエでやるようなバー体操をやったりとか、普通のパントマイムとはやり方が違ってたんですね。

―― 先生は何という方ですか。

光洋 ステファン・ニジェンコフスキーという人です。あの頃、三〇代後半ぐらいでしたか。ぼくと一回りぐらい違う感じでしたね。

―― ポーランドの人というのはどういう・・・。フランスのマイムの流れとは違うわけでしょう。

光洋 違いますね。亡命をしていたかどうかはわかりませんけど、たしか「ポーリッシュ・マイム・シアター」というのがあって、そこのメインでずっとやっていた人なんです。
  その前はボディビルダーだったんですって。聞いたら笑っちゃたんですけど。だからすごくいい体なんですよ。
  その頃は、ボディビルで鍛えた体じゃなくて、不必要な肉はどんどん落としていた体でした。
  きっとニューヨークに公演に来て見そめられたんじゃないですかね。(オーナーの)おばちゃんがニューヨークに呼んだんです。ポーランドに妻子がいたんですが、そのおばちゃんとはいつもベッタリしてました。
  マルセル・マルソーがフランスで学校を持っているんですが、そこの講師もやっていたんです。
  この学校で出会ったヤツとは、最後まで一番気が合ったんです。作品をつくるときでもなんでも。
ウォーレン・ベーコンという男で、学校に行きはじめたときは、初級の先生だったんです。ぼくが日本に帰るときも、またすぐにニューヨークに戻ってきて、こいつと組んで何かをやろうと考えていたぐらいでしたから。その後ウォーレンはマイムをやめて、一時ニューヨークで極真空手をやっていました。今も手紙のやりとりをしているんです。

(平成12年10月)

――つづく――

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