
【6】
■ モーテルで働く(承前)
光洋 向こうの警察って、「今(犯罪が)起こってる」って言わないとだめなんだそうです。起こった後だと過去形で言うと、何時間も経たないと来ないんだという話を聞いていたんです。
―― ピストルで撃たれた経験を持つ日本人なんて、そうはいないでしょう。
光洋 でも本物かどうかわからないんですけどね。
―― 本物じゃなくたって、撃たれる恐怖は同じでしょう。
光洋 いやぁ、あのときはビックリしました。
もう一つ恐かったのは、沖縄出身のオヤジ。モーテルのマネージャーをやっていた沖縄のおじさんがいたんです。日本ではだいぶ羽振りがよかったらしいんですが、沖縄海洋博で一発当てようとしたんだけどそれが裏目に出て、会社を潰しちゃって、ロスに来ていたんです。
夜中、ぼくがモーテルのフロントをやっていたんです。ほとんどお客が来ない時間帯で、それでも奥へ引っ込んじゃうとお客が来たときにわからないから、カウンターの下にマットレスを敷いて寝てたんですよ。そしたらそのオヤジが酔っぱらって帰ってきて、いきなり「何やってんだー!」と叫んだんです。
ビクッとして、すぐに「あ、酔っぱらってる」と思ったんです。「何やってんだぁ。お前みたいなやつは・・・恥ずかしいよぉ。くそー。撃ち殺してやろうか・・・」。
言うことが恐いんですよ(笑)。しかも酔っぱらってるじゃないですか。
「俺はもうナ、失うものは何もないんだ。会社も日本でなくしてるし」
―― いくつぐらいの人なんですか?
光洋 六〇前ぐらいです。そのときは「すいませんすいません」て言っておさまったんですけど、「撃ち殺してやる」「失うものは何もない」なんて言われたら、やっぱり恐いですよ。このときは、逃げ場がないですからね。
―― 日本で「撃ち殺してやる」なんて言われてもリアリティがないですけど・・・
光洋 だって、そのオヤジがピストル持ってるの、知ってるんですもん(笑)。
でも、そのオヤジさん、ぼくがモーテルを辞めるって言ったときに、「お前ピストル撃ったことないだろう。撃たしてやるよ」って言うんです。別に撃ちたくなかったんだけど、逆らうのも恐かったから・・・。
すごい軽いんですね。オヤジに向けたら、「俺に向けるなよ」(笑)。とりあえず地面に向けて撃ったら、パンって小さな音がして、反動も来ないんです。「ああ、簡単なんだな。これ人に向けてたら、人が死んじゃうんだな」と思いました。
■ ニューヨークでマイムと出会う
光洋 結局、ロサンゼルスには一年八ヶ月ぐらいいました。その頃、高校の友だちで二浪して大学に入ったやつが、就職が決まったというので、ぼくのところに遊びに来たんです。「二浪するときにぼくが相談にのって『大丈夫か』と言ったやつが、もう就職しちゃうのか・・・。おれはもう、完璧に乗り遅れたな」と思ったんです。「おれもこんなことをしていてもしょうがないから、日本へ帰って芝居をしよう」と諦めたんです。
英会話学校でニューヨークに住む日本人と友だちになって、「遊びに来なよ」というので、ニューヨークでオフ・ブロードウェイなんかの小さな芝居を半年ぐらい見て、それで日本に帰ろうと思ったんです。
―― いよいよニューヨークへ。
光洋 半年ぐらいいる予定でしたから、日本レストランでバイトをして、暮らしはじめたんです。
ぼくは体が固かったんで、なにか体をつかうようなことをしようと思って、いろいろ探して歩いたんです。ボクシングジムとか、バレエとか・・・。
ボクシングジムは恐かったですね。タイムズスクエアあたりのボクシングジムでは、黒人がバンバンバンバンやってて、「うわぁ恐い。体を柔らかくするどころじゃない。ボコボコにされるのが落ちだ」と思ってやめました。
バレエは、自分のレオタード姿が見てられないと思って(笑)。
―― いや、そんなことないですよ(笑)。
光洋 今なら別の考え方ができたかも知れないですけど。
それで、「ヴィレッジ・ヴォイス」という、こっちでいう『ぴあ』みたいな新聞を見て、それでパントマイムを始めたんです。「ニューヨーク・パントマイム・シアター」というところに通うようになりました。
―― いよいよパントマイムと出会ったわけですね。先生はどなたですか?
光洋 モニ=ヤキムというイスラエル人で、マルセル・マルソーの先生であるエティエンヌ・ドゥクルーに習った人なんです。
―― マルソーの兄弟弟子ということになるわけですね。
光洋 そうですね。いまはジュリアードで演劇を教えています。
そこの初級クラスに入りました。深い考えでパントマイムを始めたわけではなくて、とりあえず体を動かしたいと思っただけなんです。体を動かす限りは、彼らと同等になれるわけですから。
―― なるほど。
光洋 やり出すと面白くなってきて。言葉を使わずに作品をつくって、みんなに「面白い面白い」と言われたりすると、いい気になるじゃないですか(笑)。
それまでは、どっちかっていうとコミュニケーションの上で虐げられている立場にあったもんだから、それが「あ、同等だ」と思ってね。
いま思うと、向こうでパントマイムを始めたから続いたんだと思うんですね。日本ではまずやってないだろうし、始めたとしても続いてなかったと思うんです。
―― 二年近く経ってようやく見つけた自己表現の手段だったわけですね。最初はどんなことをやったんですか。
光洋 最初は何だったかなぁ。ある一連の動きのための基礎的な訓練はあるんですよ。種から木になって実をつけて・・・という一連の動きの。
そこでは、壁とか、人形振りとか、ロボットみたいなうごきとかは、やった記憶がないんですよね。いわゆる役者さんなんかも来てたんで、体のいろいろな使い方ですね、体をこうすればこう見えるとか、動物の動きみたいなものをやったりとかはありましたけど、いわゆるパントマイムといわれて思い浮かべるような動きというのは、あまりやらなかったですね。後半になってちょこちょこっとやったような気はしますけど。
―― お作りになった作品で記憶に残っているものはありますか。
光洋 ぼくが最初につくったのは、「瞑想していると、右手が勝手に動いてきて、瞑想している自分を邪魔する」という。
―― いいですね。今でも見たいですね。
(平成12年9月)
――つづく――