【4】

■「結構うまく生きてるね」

―― それからいよいよ立教大学にお入りになって・・・。

光洋 演劇をね・・・。落研はもう挫折してましたから、次は芝居だと。「何で?」というものが何もないんですよ。強いていえば、落研で人前に出る楽しさは覚えたわけじゃないですか。
それに近いものは芝居かな、と思ったんでしょうかね。

―― 劇団に入ったんですか。

光洋 校内の劇団ですけどね。その頃は既成の芝居をやって。テネシー・ウィリアムズとか・・・。

―― マジな芝居を。

光洋 そうですね。小宮さんが芝居を見に来て、「お前、マジメなんだ」って言われました(笑)。
  逆にぼくが小宮さんに、「どんな役者が好きなんですか?」と聞いたら、「ぼくが好きなのは・・・由利徹かな」と言ったんです(笑)。役者だったらもっと、仲代達矢とか言いそうなもんじゃないですか。それを聞いたときに、「あ、ずいぶん(道が)違っちゃったな」と思いましたね(笑)。
  その頃は、つかこうへいが出てきたときで、風間杜夫はまだ目立たなくて、三浦洋一とか平田満、加藤健一なんかが出てました。面白かったですよ。速度が全然違いましたもんね。

―― そういうものを見聞きする間に、「こういう演劇をやりたい」という方向性は出てきたんですか。

光洋 あまりはっきりしてなかったですね。漠然と芝居をやりたいというのがあっただけで。
  これを言うのは恥ずかしいんですけど、二つぐらい(劇団試験を)受けたんですけども、落こっちゃったんです。
  一つ目に受けたのが、大学二年のときで、小沢昭一が主催した「芸能座」を受けて、その次に受けたところもそうなんですが、一時審査には受かったんです。二〇〇人中二〇人とかには入るんですよ。
  次の年、三年から四年になるときに受けたのが、東京キッドブラザーズ。面接のときに、「今までどんな劇団を受けましたか?」と言われて、「去年小沢昭一さんのところを受けました」と言ったら、そこにいた劇団の人たちがみんな笑うんですよ。
  いま考えたら、片っ方は芸人志向の劇団だし、もう一方はミュージカルで「愛」とか「ゆめ」とかやってる劇団じゃないですか。全然違うよなぁ、と(笑)。
  で、ぼくは両方とも、そこの芝居を見たことなかったんですよ(笑)。

―― そりゃあ、受かる方が不思議ですね(笑)。

光洋 でも、ぼく、東京キッドを受けたことが、アメリカへ行くことになった直接の原因なんです。

―― ほう。

光洋 それまでのぼくは、高校から順調に大学へ入って、このまま行けば大学も卒業できると、結構ストレートに来ていたんですが、それを見て、主催者の東由多加さんから「結構うまく生きてるんだね」と言われたんです。それまでなんかもやもやしていたのが、その一言にすごくドキッとしたんです。
「だから俺、ダメなんじゃないか」と、すごく頭の中に残って・・・。
  「自分はこれから何をしたい?」と言ったら「芝居をやりたい」。でも、このまま劇団を受けたら、自分は気が弱いし、うまくやっていけないかも知れない。親は就職するものだと思ってるし・・・。
それじゃ、どこか遠くへ行っちゃおうと、一晩で決めました。

―― 人生の転機ですね。逃げといえば逃げだけど、逃げることから何かが生まれることは往々にしてあるわけです。でも、どうしてまたアメリカに?

光洋 単純に消去法なんです。最初にアフリカとロシアを除いて、次は・・・とやっていって、最後にヨーロッパとアメリカが残って、ヨーロッパは日本と同じような小さな国がごちゃごちゃしているけど、アメリカは大きいからいいかなと(笑)。

―― アメリカ行きは卒業後ですよね。まだ学生生活が一年ほどある。

光洋 はい。アメリカ行きを決めたら、まず家から逃げなきゃいけない。毎日親と顔を合わせてたら嫌だなと思って。それまでは小田原から池袋まで通ってたんですよ。
  それで、先輩が出た家をそのまま使わせてもらって。そこに下宿して、二、三ヶ月に一度家に帰るという生活になりました。
  帰るたびに親が「どうすんだ、就職は?」。最初は「う〜ん・・・」とごまかしてたんですが、「どうすんだ!」と言われたから、「アメリカ行くよ」と。「アメリカ行ってどうすんだ」。
こっちも行ってどうしよう、というのは無いから「う〜ん」(笑)。「アメリカなんか、就職決めてからいくらでも行けるから」「いや、そうじゃなくてさ・・・」。就職したくないということは、とりあえず言える雰囲気じゃないし(笑)。「就職する前に、アメリカに行きたいの」「お前な、親も年とってくるんだぞ」と、泣きのほうに入ってきたりして(笑)。

―― つらいところですね。

光洋 でも、親って弱いですね。最後には金の心配をしてくれましたからね。

■ いよいよアメリカへ!

光洋 大学の最後の一年は蕎麦屋でアルバイトをしてお金を貯めていたんですが、それでもお金が足りなくて、結局、親に少し出してもらって・・・。
行くなら、二年ぐらい行かないと、と思ったんです。なぜ二年かというのは、自分の中ではっきりしてないんですけど、とりあえず二年いけば恰好がつくかな、と思いました。
  五〇万ぐらい持ってたのかな。でも、知り合いがいるわけじゃないし、英語がしゃべれるわけでもないので、五〇万で二年はいられないな、と。
  その頃、『スチューデント・タイムズ』とかっていう新聞が出てたんです。それにホームステイ先を紹介する会社のことが出ていました。その会社というのは、日本人でホームステイをしたいという人と、向こうの家庭で、家事を手伝ってくれて住むところと食事とちょっとした小遣いを提供したいというところを結びつける会社だったんですよ。
  それで、ホームステイを始めたんですよ。ロサンゼルスです。ブレントウッドという、UCLAのあるウエストウッドの隣の町なんです。車でなきゃ移動できないようなところですね。

(平成12年7月)

――つづく――

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