
【3】
■バスケ部をやめたワケ
―― 昆虫好きの光洋少年は、中学では何を?
光洋 中学でも高校でもそうなんですけど、クラブ活動では必ず運動部に入るんです。でも、長続きしないんです(笑)。
まず、背が高くなるバスケットボール部に入りました。ぼくは、いつも前から五番以内で、小柄だったんです。中学あたりになると色気づくから、小さくて、運動もできないとモテないと思って。
結果的にいうと、三ヶ月ぐらいでやめちゃったんですけれども、その直接の原因は・・・。中学校が川べりにあったので、いつも川べりを走るんです。ぼくは走るのが遅いから、先に走っていた先輩とすれちがって「お前、早く走れよ」なんて言われてたんです。
あるとき、川べりを走ってたら、ピチャッと魚が跳ねたんです。「あ、魚」。一緒に走っていた友だちに「見た?魚、跳ねたね」「跳ねた跳ねた」「獲れるかな・・・」。
で、魚を獲りはじめたんです(笑)。けっこう獲れたんですよ。面白いから夢中で獲っていて、フッと気づいたら、もう夕暮れ時になっていて・・・。
「おい、どのくらい経った?」「いや、あれから一、二時間は経っているかも知れないぞ。どうする?」「帰っちゃおうか・・・」というので、それっきり(笑)。
―― 魚が跳ねたためにバスケ部をやめたと(笑)。
光洋 松方弘樹の父親の近衛十四郎がやっていた「花山大吉」とか「月影兵庫」が大好きで、あの頃、いつも夕方の四時にやってたんですよ。それが見たかったというのも、どこかにあるんです(笑)。
二年になって、バレーボール部に入ったんです。ただただ「回転レシーブ」がカッコイイなと思って。それはまあ、すぐにできるようになったんですけどね。ただそれだけなんですよ。それもふた月ぐらいでやめました。
あとは何もやってないです。
―― その頃は成績の方はどうだったんですか?
光洋 それなりにできたんです。学力に関しては、小学校の四年までどうしようもなかったんです。三がほとんどで、二が一つ、二つとか、たまに四が一つあったりして。
―― 当時は五段階評価ですね。
光洋 はい。それで小学校五年のときに、初めて五がついたんですよ。四が二つで。何かの間違いじゃないかと思ったぐらいで。
―― 何の科目で?
光洋 それが思い出せないんですよ(笑)。運動もダメで、勉強もダメで、親に通知表を見せるのが恐くて、成績がひどいと押入に入って泣いてたくらい。そういうときに、一条の光が射したように思ったんですね。それから勉強をし出したんです。
人間て、そういうのあるんですね。そのときに運動がうまくできていれば、バリバリの体育会系になってたのかも知れないですね。
中学校に入ったら、いきなり学年で三位を取ったんですよ。自分も驚いて、親も驚いて。でも、それからだんだんだんだん下がってきて、「あ、やっぱり・・・やっぱり・・・やっぱり・・・」と(笑)。
―― でも、上位にはいたんでしょう。
光洋 まあ、そうですね。「なんだ俺、バカじゃないじゃん」と思って・・・。
―― やっぱり自信をつけるということが大事なんですね。
■ 落語家になりたかった
―― 高校はどちらへ?
光洋 地元の小田原高校です。そこでは剣道部に入りました。これは半年続きました(笑)。やっぱり雰囲気がだめだったんですね。先輩がやってきて「お前ら、もっとちゃんとやれよ!」なんて言うのがね。こちらは一年生だから「はい、はい」って。上下関係は良いんだけども、「それは理不尽だろう」っていう感じがあったんですね。
高校二年で、いよいよ落研に入ったんです。
―― 高校に落研があったんですか。
光洋 あったんです。落研をつくったのは、一年上の先輩で、コント赤信号の小宮孝泰さんなんです。
ぼくは二年で入って、小宮さんは三年だったから、受験でたまにしか来なかったんですけれども。
落研に入って、「あー、なんだぁ。今までおれはどうして、こんなに遠回りしたんだろう。おれは文化系の人間だったんだ」(笑)。
「どうする練習?」「疲れたからやめよう」。あー、なんて居心地がいいんだろう、ここは(笑)。
喫茶店に入って、だらだらだらだらと過ごして・・・。
―― 部員は何人ぐらい?
光洋 ぼくと同じ学年が三、四人。下が五、六人でした。
―― 落語もやったんですね。どんな噺を?
光洋 その頃好きだった(八代目)文楽の「厄払い」とか。それから「千早ふる」。これは小さんのレコードを聞いてやったんです。
一回、志ん生のを聞いて「大工調べ」をやろうとしたんです。で、覚えて実際にやってみたら、面白くないんですよ(笑)。
―― 難しい噺ですよ(笑)。
光洋 そうなんですよ、いま思えば。その頃はわからなかった。ただ、自分が聞いて面白い噺をやれば聞く方も面白いだろうと思ってたんですね。実際にやってみて、「やる人の技量ではじめて面白くなる、そういう噺があるんだ」ってことに気づいたんです。これは発見でしたね。
ぼくはそれまで運動部をやってきたんですけど、ほんとうは小学校のときから、落語家になりたいと思ってたんですよ。
でも、カッコ悪いですから、絶対に人には言わなかったんです(笑)。言うようになったのは、ここ何年かですよ。
―― どうしてですか?
光洋 だって、恥ずかしいじゃないですか。
落語家になりたい、と言う勇気を持っていれば、たぶんぼくは(大学卒業後に)アメリカに行かなかったんですよ。
―― 落研時代の芸名は何というんですか?
光洋 えーと、「月の夜愛キョウ」。キョウという字はどういう字だったかなぁ・・・。二代目なんです。
その頃は、きっちりやったんです。あんまり余計なことを言わずに。先輩からは「文楽だね」って言われました(笑)。小宮さんがやってるのを見て「うまいなぁ」と思ったんですよ。その場に合わせていくしね。あれでぼく、挫折しましたもん。小田原あたりの田舎でこんなにうまい人がいるんだから、やっぱりこれを仕事にするのは無理かなぁ、と。
―― でも、今の光洋さんは、その場のお客さんに合わせておやりになりますよね。
光洋 ぼくは自分では、あんまり融通のきく方ではないと思ってるんです。
ま、基本的には(場に合わせて)変えていくタイプだと思ってるんです。でも、自分としてはきっちりやる方が、自分で自分のやってることに納得できるんです。あまり流れ過ぎると、あとで自己嫌悪に陥るというか。それでも、きっちりやって受けないよりは、目の前のお客さんを楽しませたんだから、という安心感はあるんですけれども・・・。
(平成12年6月)
――つづく――